【 3 】

「本当に、誰もこないね」
「ああ」
なぜ、この旅館が見るからに新しいセキュリティを導入してないのか解ってきた。真夜中に入れる風呂の男女がいれかわるということはつまり、二十四時間、旅館の誰かが見回りをしているってことだ。警備員らしい姿は一人しか見なかったけど、どの棟にも仲居さんが寝泊まりしている雰囲気だ。大きな声を出せば、何人とんでくることか。変な声だって出せやしない。
そんなわけで、日付が変わった頃、Kがいってみたいというので露天風呂に向かった。
こんな時間のせいか、誰ともすれ違わなかった。
脱衣場の鍵が、無意味に思われるほど。
初夏には木漏れ日が美しいだろう風呂だが、今は木の枝が星空を隠していた。
「……だめだ。のぼせそうだ」
「無理をするなといったろう。心臓より上は、湯の外に出しておくものだ。足だけつけて、あがっていろ」
「うん」
湯口から離れた岩の上に、僕は座った。
寒く感じるところなんだろうけど、ほてった肌に、夜風が心地よかった。
「あのさ、K」
「なんだ」
「温泉初心者と来ると、あんまり楽しめない?」
「そんなこともない。たくさん入れて、楽しい」
「ならいいけど」
そこで僕は、言葉につまってしまった。
明日の朝は部屋食なので、その前にKが朝風呂に入りたいと思ったら、そろそろ帰って寝た方がいいはずだ。
僕はここのところ、夕食を食べたらすぐ寝て、夜中に起きる生活を繰り返していたから、すぐ眠れそうにもなかったけれど、Kはそんな不自然な睡眠サイクルはとってないだろう。
だから、「あがって、もう寝よう」といいたかった。
だって万が一、僕が抱きしめても、Kがいやだっていわないなら、そろそろ、そういう時間だ。
裸はすっかり見せあってしまっていたし、今さら情緒も何もないんだけど。
「でも、ほら、男となんかさ。……いや、僕なんかと」
なにを口走ってるんだと思った瞬間、頬が赤くなった。
もちろん、湯あたりで、もともと赤くなってはいたはずだ。
脱衣場のあかりがもれていても、よく見えないことを、僕は祈った。
「どうしてもいやなら、誘われて一緒に、風呂に入ったりしないさ」
Kは真顔だった。
声も真面目で。
僕は思わず、Kから顔を背けた。
「意識して、ないからだろ」
告白にひとしい言葉だった。
だけどKは、いつもどおり軽口を叩いてくれると思った。
笑い声は、しない。
おそるおそるもう一度見ると、Kはこちらをじっと見つめていた。
「それは、どうかな」
心臓が破裂するかと思った。
だって、だめだよ。
ここは真夜中でも、旅館の人が歩き回ってるのに!

* * * * * * *

仲居さんは、二組の布団を並べて敷いてくれていた。
部屋のあかりをおとしても手元が見えるように、枕元に小さな照明がおかれていて、木彫りのカバーの編み目から、赤い光が妖しくもれている。
「明日は六時半に起きて、別棟の風呂に入ろう」
「それじゃ、あと数時間しか眠れないけど、いいの?」
「起きられなければ、その時はその時だ」
そういってKは横になった。
僕も横になった。
何度も湯に入ったし、疲れてるはずなのに、眠れない。
Kは、いつもどおり、寝息をたてていなかった。
たてていないということは、もしかすると寝ていない可能性もあるということだ。
僕は、どうしていいかわからなかった。
おろしたての下着をつけていた。
どんなことがあっても相手を傷つけないよう、爪はきれいに切ってあった。掌も丁寧に手入れして、滑らかにしあげてある。
ばからしいことに、そんなことまで何日も意識して準備していた。
だからKが眠っていても、せめて頬に口づけぐらい、いや、布団をあと五センチ近づけるだけでも、と寝返りをうって、Kの方をむいた。
「あ」
Kは目を閉じたまま、こちらを向いていた。
裸の腕が浴衣からこぼれて、枕に添えられている。
もし、いまひとこと話しかけたら、眠っていたとしても目をさましそうだった。
ちょっと近づいただけでも、ぱっちり目を開けそうで。
Kの言葉が、頭の中でリフレインする。
「それは、どうかな」

僕は、動けなかった。
赤い光の中で、いつまでもKの顔を見つめていた。

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2007.04.01 up
copyright SHINICHIRO KIRIYA 2007.